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Presented by フロイデ

ペトロフピアノの歴史

創業期から帝国第一のピアノメーカーになるまで

創業

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 家具職人だった父親について家具作りの修行をしていたアントニン・ペトロフは、ピアノ製造の将来性に興味を持ち、大志を抱いて1857年ウィーンに旅立ちました(当時19歳)。ショパンやリストが活躍したこの時代には、ピアノ製造上のメカニック的な発展は一応完成の域に達していて、有名なスタインウェイやベヒシュタインが創業したのもこの時期(1853年)でした。この時ピアノ生産はある程度量産化に向かっており、一般家庭にも普及するようになっていました。
 ウィーンで修行を終えたアントニンは、1864年に生まれ故郷のフラデツ・クラーロヴェーに戻り会社を設立、ピアノの製造にとりかかりました。PETROF社は、ここに長い歴史の第一歩を記したのです。その後、戦乱などで困難な状態を迎えた事はあっても、徐々にピアノ生産は拡大し、1874年には新しい工場を立ち上げました。


オーストリア=ハンガリー帝国最大のピアノメーカーへ

 新工場ができると、製造過程のほとんどをそちらに移転しました。その頃には全工場を蒸気の動力を利用して機械化し、作業効率を飛躍的に高めるとともに、鋳鉄フレームや最先端の英国式グランドアクションを改良したレペティション・アクションを採用するなど、ウィーンのメーカーよりも技術的な進歩をとげていました。1883年にはグランドピアノに加えてアップライトピアノの生産も開始しました。アントニンはオーストリア皇帝から「宮廷御用達ピアノ製造供給者」(1895年)に任ぜられ、販路を海外にも拡大していきます。技術的な改良にも熱心だったペトロフ社は、その質の高さから多くのピアニストや教育関係者の支持を集め、一般家庭はもとより、学校、劇場、コンサートホールにまでピアノを供給するようになりました。1908年、ペトロフ社は法人化され、子息たちも経営に関わるようになると、ライバル会社を次々と買収し、イギリスのロンドンに支社を開設。1914年には、オーストリア皇太子にグランドピアノを献呈しました。この頃ペトロフ社は、オーストリア=ハンガリー帝国最大のピアノメーカーに発展していました。創業者・アントニンが亡くなる1915年までに販売したピアノは、35,500台にものぼります。


時代背景を考える

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 ペトロフ社が飛躍的な発展を遂げた19世紀後半のこの時代は、15世紀からの長いハプスブルグ家の支配に対して、チェコ民族の復権を掲げた国民的な運動が波状的に何度も起こりました。その結果、ついにはそれまで禁じられていたチェコ語の新聞が発行されるようになりました。また、チェコ語の演劇やオペラも作られるようになり、それらを上演する為の国民劇場の建設運動が起こると、1881年ついにそれは実現しました。この劇場は、完成直後に大火により焼失しますが、「あきらめずにもう一度建てよう」という声が全国に広がり、わずか2年後に再建を果たします。民族の復権の願いが、いかに痛切なものであったかを示すもと言えるでしょう。そして、この劇場を拠点に、国民音楽の旗手として、スメタナやドボルジャークが活躍し、チェコ文化復権のシンボルとなりました。このように見てくると、ピアノ産業としてのペトロフ社の飛躍的な発展の背景には、チェコ国内での歴史的な文化的高揚があったのではないでしょうか。


二つの大戦と大恐慌、国有化の荒波

第一次世界大戦 第二世代による新しい飛躍へ

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 順調に発展を遂げてきたペトロフ社の社運も、二度にわたる世界大戦によって大きな荒波に翻弄されます。1914年に勃発した第一次世界大戦は、ペトロフ家の長男と次男が実際に従軍し、また、大戦2年目にはアントニン夫妻が相次いで亡くなり、当然社業の発展は停滞しました。 戦乱による経済活動の停滞ばかりか、ペトロフ社の担い手そのものが社業から遠ざけられたのです。戦争が終結した翌々年の1920年にはチェコ・スロバキア共和国が成立し、長年の夢であった独立を果たすと、社会にも活気がよみがえり、ペトロフ社もアントニンの息子たちを中心に、間もなく運営を開始しました。新しいアクションを導入するとともに、生産の工程にも技術的な改良を加え、ペトロフピアノの品質は飛躍的な向上を遂げます。1935年にブリュッセルで開催された世界博覧会では、最高の栄誉であるグランドプリックスを授与されています。 品質の向上したペトロフピアノは、国内外で人気を博し、販路を世界各国に広めました。まさにPETROFは、国際ブランドになったのです。この時期にはすでに、日本へも出荷されています。


第二次世界大戦 再び迫る国有化の悲劇

 1939年のナチスによるチェコの併合とそれに続く第二次世界大戦の勃発は、漸く世界の舞台での活躍が期待されるようになったペトロフ社の社運を、急激に苦難の道へと引きずり込む事になるのです。6年に及ぶ戦火の元、ペトロフに限らずピアノ産業は、概ね停滞をやむなくしました。戦火に苦しむ人々は実際ピアノどころではなかったのです。(この時期、日本においてもピアノ工場は、軍需工場に衣替えされていました。)その後1945年春に戦火は途絶えたものの、漸く生産が軌道に乗り始めた1948年、政権をとった共産党政権による国有化という新たな試練が待ち受けていました。そしてそれは、1989年のいわゆるビロード革命により共産党政権が倒れるまで、つまりは40年間もの間続く事になるのです。

(余談)
 筆者自身、この国有化された会社が製造したペトロフピアノに何台か出会っておりますが、やたらと鍵盤が重く、とてつもなく弾き難い印象しか持てませんでした。ピアノというきわめて嗜好性の高い商品は、計画された生産台数の達成のみを至上課題とする生産方式にはそぐわないものなのではないかと思われます。(それはなにも国有企業に限った事ではなく、シェアを維持する為にコストの削減ばかりにこだわる最近の大量生産メーカーの姿勢にも言える事ですが。)


さらなる飛躍へ

 40年以上にわたる国有化のくびきを脱したペトロフ社は、新しい飛躍の時代を迎えました。4代目ヤン・ペトロフ率いる民間企業となったペトロフ社は、これまでよりさらに多くのユーザーの期待に応えるべく奮闘していきます。レンナーアクションの採用によりタッチは見違えるように軽快になり、ふくよかで芳しい音色、彫刻作品を思わせる伝統的なデザイン、これらがあいまってペトロフピアノは非常に魅力的なピアノとして進化を遂げました。しかも、ヨーロッパにおける主要なピアノ生産国であるドイツやフランスと比較して、人件費などの製造原価が低く、コストパフォーマンスに優れているため、世界中から注目されるようになりました。とりわけ、世界3大ピアノの1つベヒシュタイン社から、OEMによるホフマンピアノの受注に成功した事は、「ベヒシュタインが、ペトロフの技術を保証した」と話題になりました。現在ペトロフ社は、株式会社となり、21万平方メートルの敷地に、5つの工場と従業員1,000名を擁し、ヨーロッパ最大のピアノメーカーに成長しました。2004年のチェコのユーロ加盟で、いずれは販売価格も上昇する事でしょうが、それに見合った品質の更なる向上を期待したいものです。


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